お局様との戦いが決着してから数カ月後、タガが外れたスタッフの中から新たに最凶最悪のお局が成長を遂げ、分院長となったわたしの前に大きく立ちはだかります。
前回のエピソードはこちらから。
お局様は衛生士や歯科助手だとは限らない
受付嬢のN美、ジュリアナ東京でよく目にしたファッションをまとった彼女の言動は、見た目以上に派手なものだったが、最初からそれを見咎めたわけでもなく、別に気にもとめなかった。むしろ彼女の方からわたしに接近してきたほどで、
「センセ、白衣の襟が折れてますよ」
と背中越しに触れてきてみたり、
「見て見てーっ! これ可愛いでしょう」
と鮮やかな花柄で彩られた私服の裾をひるがえして見せるのだった。
さしてキレイでも可愛らしいわけでもなく、メイキャップを剥がしてしまえば、コクのないスケトウダラみたいなのっぺりとした顔立ちなのは置いといて、楚々とした古風な女性観しか持ち合わせていないわたしにしてみれば、ギラギラ感を全面に押し出してくるN美は苦手だった。だから広瀬香美の『ロマンスの神様』の1番もわりと嫌い(笑)。
※注)心の奥底で久しく眠っていた憎しみが目を覚まし、酷い描写になっております。お見苦しいのはよく理解しておりますが、どうか大目に見てやってください。
こっちに興味が無い、それ以下の感情しか持ち合わせていないことは伝わるもので、彼女の言動も次第にぞんざいになっていく。そしてなによりT衛生士がおとなしくなったぶん、他の若いスタッフとの私語、嬌声が日を追うごとに耳障りになっていった。
ある時、こんなことがあった。
勤務先は数年前、個別指導を受けて高点数を指摘されていた。診療所が立地する県は、社会保険のモデル地区だとかで、技官の発言力が強く、歯科医師会もたじたじ。一日当たり7~80人くらいの患者を診ていたから、総点数が高くなるのは必然。なのに患者数、一人あたり平均点、請求内容には目もくれず、高い総点数に目ぇつけられたわけだ。その指導のなかで、理事長は技官にこう言われたそうだ。
「先生、金パラだけが歯科用金属じゃありませんからね」
理事長は、口腔内に異種金属が入る弊害を訴えたが、節を変えようとはしない技官の軍門にくだり、以来、わたしの勤務先では、総点数を抑えるためだけにインレーは銀合金を使用することになった。
銀合金を扱ったことがある人ならわかると思うが、自動研磨機などを使った際、銀合金は時に酸化膜による淡いゴールド色を帯びることがある。ある日、カルテと一緒に持ってこられたインレーがうっすら黄色みを帯びている。酸化皮膜のことなど知らないわたしは、ゴールドインレーを間違って指示したのかのかと思い、確認のため受付へ向かった。技工指示書はN美の管理だったからだ。しかし、
「いつものサリバン(日本歯研の銀合金)ですよ。歯医者のくせに、そんなこともわからないのですかぁ?」
と、薄ら笑いを浮かべながしたり顔で返されてしまった。この一件以来、わたしは、N美があからさまな敵意を抱いていると認識するようになった。
また別のある日、いつものようにお気に入りの曲が有線から流れだすと、勝手にボリュームを上げて踊りだす。
注意する者はいない。T衛生士も見て見ぬふり。
退職した前任に代わって分院長になっていたわたしは、注意せざるを得ない。にもかかわらずN美は背を向けて踊り続けていたが、何回目かの叱責のあとにようやく踊るのをやめ、肩を怒らせて振り向いたその表情に、わたしの背筋は凍りついた。
垂らした前髪の隙間から、まるで貞子のような血走ったまなざしでにらみつけてくる。この時流れていた曲が、シニータの『トイ・ボーイ』。オリジナルであろうが、カバーであろうが、この曲を耳にするたびに未だに胸くそが悪くなる。
操り人形と化した理事長夫妻
「センセ、あんた評判悪いよ」
定例の報告会で理事長宅に呼び出されたわたしは、着席するやいなや理事長夫人にいきなり切り出された。
てっきり患者から苦情が寄せられたのだと思った。
「すみません、まだ卒業して2年目ですから、治療面では未熟なことも多いかと思います」
「違うわよ、スタッフに評判悪いって言ってんの!」
すぐには事情が飲み込めなかった。
すると理事長が口を開く。
「そうだよスギウラくん。分院に遅くまで勤めてくれる女の子は大切にしなくちゃあな。あまり強いことは言わんでくれ」
声は穏やかで怒気は含んでいないが、彼の背後に、N美が向けた貞子のようなまなざしが幻となって浮かんでいた。
どのように伝わったのかは知る由もないが、讒言されたのは明らかだった。N美は理事長のお気に入り、実際にふたりの関係がどうだったかはわからないが、反論が徒労に終わるであろうことを直感的に理解したわたしは、出かかった言葉を悔しさといっしょに奥歯に噛みしめた。
話はそれで終わらなかった。
「しかしスギウラくん、あんた稼ぎ悪いねぇ。M先生(早番の分院長)の半分も点数あげてない。これ、どういうことだ?」
理事長がテーブルの上に滑らせてきたのは、A4サイズの紙だった。そこにはわたしを含めた4人の分院勤務医の名前が手書きで連ねてあり、その横には数字が記されていた。
理事長は言った。
「これな、N美に頼んで、先月の売上高をドクター別に集計してもらったんだがスギウラくん、あんた最下位だよ。まさかサボっているんじゃないだろうね?」
わたしは、自分の名前の横に書かれた数字に食い入った。月間で十万点そこそこ。今年の春に働き始めた新卒歯科医の売り上げにも及ばない。
そんなはずはなかった。夜の部では初診はわたしが診ることになっていたし、前月、点数が高い補綴処置はかなりやった。修復補綴は、形成した者がセットする決まりになっていたから、ありえない数字だった。これでは根管貼薬か義歯調整ばかりやっていたことになる。
紙に書かれた丸い手書きの文字を見つめるうちに、とめどない怒りが湧いてきた。勤務する医療グループの給与体系は基本給+インセンティブ(出来高払い)。確実に給与に響くだろうが、そんなことよりも、これでは分院長としての面目は丸つぶれだし、理事長からの信頼も失いかねない、その方がむしろ心外だった。
当時はレセコン登場の前夜だったから、カルテも当然のように手書き。筆跡を見れば誰が処置したのかがわかるはずだが、如何せん忙しい合間にカルテを書くもんだから、みな字は汚い。N美に判別不能の言い訳されてしまえばそれまでだった。
それでも反論せずにはおれない。N美の日頃の振る舞いから、彼女による意図的な改竄を訴えたが、ここで理事長の顔色がかわった。
「黙らっしゃい! 受付がいちばんドクターに目を配っているんだ。間違えるわけないだろう。男らしくねえぞ!」
理事長夫人が追い打ちをかける。タバコの煙と一緒に、
「そんなわけだからセンセ、暮れのボーナスは期待しないで頂戴ね。ウチだって厳しいんだから」
と淡白な表情で吐き出す。
もうそれ以上、なにを言っても無駄だと悟ったわたしは、疲れた身体を引きずってアパートに帰り着くと、ベッドに大の字に横たわったまま、夜が明けるまで天井の灯をみつめていた。
反撃開始。しかし……
翌朝わたしは、勤務先へ向かう道中にある文房具店に立ち寄った。シャチハタ付きのボールペンを購入するためだ。カルテの文字が汚くて判別不能の言い訳をさせないために(いや、実際にはN美にだって判別できていたはずだ)、処置の末尾に自分の名前を押印することにしたのだ。
押印されたカルテに唖然とするN美。その様子に、ほくそ笑みながら胸のうちに呟いていた。
──ざまあみろ──
と。
インセンティブを評価してほしくて思いついたのではない。カルテに押印された自分の名が、歯科医としての、いや、ひとりの人間としてのプライドを充足させていたのだった。
組織に属していると、こんなことは珍しくないかもしれない。画期的な研究成果を、指導教授に横取りされた助教の話とか。
N美は相変わらずドクター別の集計をしていたが、シャチハタで押印するようになって以来、売り上げでとやかく言われることはなくなった。売上高トップの数字を、わたしの名前の横に記さねばならない彼女の気持ちは想像に難くない。やがてN美の内部にたまり続けた憎しみの炎は、分院全体を巻き込んで激しく燃え盛っていく。お局様としての本領発揮はこれからだった。
つづく。
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