小児の歯科治療に於ける麻酔注射の是非をめぐって、激しい論争が巻き起こっている。もちろん亡くなられた患児には深い哀悼の意を表するとともに、医療人として再発防止に尽力したいと誓ったところである。
しかしながら、薬剤アレルギーなどの、医療側の無過失責任においては完全に防げえるものではない。だから一部のマスコミが、センセーショナルな文言(だけ)を切り取り、過剰に煽りたてる風潮には眉をひそめざるを得ない。事故は必ず起こる。原発の建屋が吹き飛ぶ映像を目にした方は、この現実がご理解いただけるであろう。医療においても事故発生率は万一どころか千にひとつ、いや数十ケースに一件の割合かもしれない。その多くが「ヒヤリハット」と言う言葉で医療人の間で共有されている。本ブログは特に小児の歯科治療に携わる人々のために書いているため、テクニカルタームを駆使しているが、それは決して非医療人に分かりにくく煙に巻くためではないことをご理解いただきたい。医療とは高度に集学的で複雑な手技や熟練、経験を伴って辛うじて成り立っているものなのだから。
小児の歯科治療に於ける過酷事故例
どんな状況であれ、医療事故は術者、患者双方にとって不幸以外の何ものでもない。患者が亡くなられたのならなおさら。最近はあまり歯科での医療事故の報道を見聞きしなくなったが、それでも小さなお子さんが命を落とされたケースは痛ましくもあり、大きく報道される傾向にある。
ニュース記事のリンクや、画像を載せるのは避けるが、私が記憶している事故は次の4ケース。記憶を頼りにざっくり書いてるため、記述に誤りがあれば忌憚なくご指摘いただきたい。
①むし歯予防に使うフッ化ナトリウムを、腐食性のフッ化水素酸と間違えたケース
非常に初歩的なヒューマンエラーであり、且つ、深刻な結果を招いた事故。事故というよりは過失か。
歯科医がフッ化物を塗布しようと女児の口腔内に薬液を塗り始めたところ、女児が激しく暴れたため、周囲の大人が彼女の身体を押さえつけ、薬液の塗布を継続。すると女児の口腔内から白煙があがるに至り、ようやく歯科医も異常に気づく。結果、救命救急へ搬送されるも、数日後にフッ化水素酸による急性中毒で死亡。
【アナリシス】
歯科医の奥さんが、出入りの材料商に、「フッ素ちょうだい、フッ素」と、フッ化ナトリウム溶液のつもりで注文し、材料商は何故か確認が不充分のままフッ化水素酸溶液(以下、フッ酸)を納品してしまったのが事故の発端。
フッ酸はガラスをも溶解する最強のハロゲン化物であり、主に半導体のシリコンウエハーを処理するために使用されるが、歯科業界ではポーセレンの溶解修正に使用する。しかし、技工所では知られていても、歯科診療所では一般的ではなく、臨床の現場で「フッ素」と言えば、虫歯予防に使用する「フッ化ナトリウム溶液」を指す。故に、事故の現場では疑うことなく、フッ酸を使用してしまった。フッ酸はガラスをも溶解するため、フッ化ナトリウムと似たポリエチレン容器に保存、流通することも原因のひとつと考えられる。
材料商、歯科医、その奥さん、すべてに思い込みがあり、確認を怠った不幸きわまりない事故と言える。
※予防に使用するフッ化ナトリウムには腐食性はいっさいないことを追記しておく。
②ロールワッテの気道落下による窒息事故
歯科治療に際して、恐怖心から激しく抵抗したため、歯科医師とスタッフが総出で四肢を押さえつけ治療を開始。最初は暴れていた患児も、しばらくすると目をつぶって体動もなくなったことから、患児が疲れて眠ってしまったと誤認。しかし治療が完了しても意識が戻らないため事故に気づく。原因は簡易防湿に使用していたロールワッテが、泣きじゃくる拍子に気道へ吸引され、酸素吸入を受けつつ救急搬送されるも、低酸素脳症で死亡したもの。
【アナリシス】
患児は(たしか)4歳で意思疎通は医療者側とは可能であったかもしれない。しかし4歳児で抵抗された場合、小児歯科をメインに標榜するわたしでも治療は躊躇する。日本語が理解でき、正常な情動発達を遂げ歯科治療がなんとかできるようになるのがだいたい3歳3カ月くらい。それでも治療に抵抗を示す患児は少ないながら存在する。もしも小児の治療に自信がないのなら、小児歯科を専門に標榜する他施設へ紹介すべきだと思う。下手に治療するほうが、互いにデメリットしか残らない。
それでも治療にトライするならば、体動には抑制具を使用したほうが無難である。スタッフは元より時に母親まで借り出して四肢を抑えつけたなら、歯科治療へのトラウマになりかねない。加えて介助者には患児の様子を観察するよう指示しておくべきである。窒息に至ったならば、泣き声が消失すると同時に奇異呼吸が発生するし、場合によっては吐瀉物で窒息する危険もある。そんな時に即座に吸引できるよう身構えていなければならない。
窒息防止への対処については、今さら私がいうまでもないが、可能ならばラバーダム防湿を推奨する。局所麻酔下であれば、クランプの装着は容易であるし、誤飲、誤嚥、嘔吐反射、切削器具による口腔内の損傷を最小限に抑えることが可能である。だからわたしは乳臼歯の治療には、どんな些細な手技でもラバーダムを必須としている。
しかしながら、どうしても簡易防湿に頼らざるを得ない先生もおられるであろう。その場合、バイトブロックよりは万能開口器の使用をお勧めする。バイトブロックでは患児が舌で押し出したり、誤飲、誤嚥の可能性がある。それでもバイブロックを使用するのならデンタルフロスを結紮しておくべきである。これはラバーダムクランプ、リーマー・ファイルも同様であることは言うまでもない。
近年、人手不足が深刻化してワンオペ診療にならざるをえないクリニックもあろうかと思う。しかし、私にはワンオペは無理だし、推奨しない。その最大の理由は、術者に加えて介助者の観察眼が大事だと考えるからである。このケースの場合、窒息を起こして意識を失うまでの間に、患児の異変──奇異呼吸、チアノーゼ等──に誰かが気づけたのではないのか。そう思うと残念で悲しく悔しい事故である。所詮は後知恵なのだけど。
③抜去した乳臼歯が鉗子から滑脱、窒息を起こしたケース
【いきなりアナリシス】
もう事故の経緯を説明する必要もないだろう。鉗子で抜去した上顎Dを、首を振られることによって滑脱、患児の口腔内へ落下、窒息を招いた事故。「死のイヤイヤ」としてかなり大きく報道された。4歳の女児だったと思う。どのような経緯で抜去に至ったかは記憶していないが、4歳児の上顎Dで保存不可能な状態になるのは医療者としてやるせない思いがあるが、それはさておき。
抜歯に際しては、ラバーダムを装着することはないから、抵抗された場合はかなりシビアな状況が現出する。水平位で抜歯に臨んだものと想像するが、注意しなければならないのは4歳という年齢。当然、交換期ではないから乳臼歯の歯根は大きく開大している。根尖病巣があれば多少は吸収しているかもしれないが、抜歯にはかなり大きな力を必要とする。局所麻酔を施されると、痛覚と冷温感覚は消失するが、圧覚が微妙に残る場合がある。さらに頭部や下顎骨を固定源として把持するから、小児にとっては恐怖心を招きやすい。また術者には聞こえ難いが、骨伝導で鼓膜に伝わるメリメリ音も恐怖を助長するだろう。抜歯の瞬間、反射的な体動があるかもしれないが、私の経験から、これはほとんど制御できたためしがない。
異物を小児の口腔内へ落下させてしまった場合、注意しなければならないのは、術者が慌てないことに尽きる(慌てないわけがないが)。急いで起こすことは嚥下反射を招いて誤飲、誤嚥を招くとされる。口腔内に落下した異物が視認できればよいが、このケースではいきなり声が出なくなった、つまり既に気道を塞がっていたことを意味する。さらに悪いことに、術者が慌てて患児を起こし背中を殴打したことにより、さらに抜去歯を落下させ強く気道を閉塞させてしまったことが裁判で指摘されている。
声が出なくなり奇異呼吸を認めたなら、まず咳き込むよう促し→効果なければ頭部を低く抑えて背部を殴打するかハイムリック法をトライ→それでも効果なければ患児の頭部を逆さにして背部を殴打、同時に救急搬送を要請する。
一時期、テレビやコミックでバキューム装置などによる吸引が推奨(?)されたこともあったが、これは異物が喉の奥に見えている場合と思っていただきたい。
他にしりもち法という救命措置がある。大きくしりもちを突かせることで、左右の気管支のいずれか(殆どの場合左へ)へ落として片肺で呼吸を確保してしまおうとする方法だが、裁判での指摘どおり増悪させやしないか考えただけでもゾッとする。それでも呼吸路が確保できない場合は、20Gくらいの注射針を輪状軟骨から穿刺、気道を確保するという方法があり、専用のキットが売られていたと思うが、私は学生時代にレクチャーされただけでマネキン実習すら受けていない。できる歯科医がいるとすれば口腔外科医ということになろうか。
しかし誤嚥に伴う救急措置は、歯科医をやっている以上は遭遇する確率が高いのではなかろうか。現に私は、診療室に於いて、衛生士がインレーを誤嚥させた患者を1回、診療室外では肉の塊を誤嚥して苦しんでいる高齢者を2回、いずれも背部殴打法で救っている。救急救命措置に実習はない。いつもぶっつけ本番なのである。
④そして今が旬の麻酔事故
【いきなりアナリシス】
もはや麻酔が必要だったか否かという不毛で検証のしようがない議論には触れまい。
しかしながら私は、小児の歯科治療には局所麻酔を施す場合が多い。恐らく、近隣の先生より圧倒的な頻度だと想像する。理由は明白。麻酔をしたほうが患児が可哀相ではないからだ。小児歯科の現場を知らない人からすれば、注射なんかしちゃって可哀相! と思うかもしれないが、それは大きな誤解である。
私は治療室に保護者の同伴を推奨している。何故か──。患児の状態を見てもらいたいのはもちろんだが、痛みの少ない麻酔、ラバーダムによる治療のスムーズさを見ていてもらいたいからである。患児にしてみれば近くに保護者がいる状況は安心感につながるだろうが、そんなのはオマケにすぎない。とにかく痛くしないことが小児歯科の基本なのである。
恐怖心は戦闘ホルモンである内因性のカテコールアミンの分泌をもたらし、さらなる興奮を招く。しかし日本語が通じる3歳児以上であれば、不安を取り除けないまでも軽減することは比較的容易である。表面麻酔や30Gといった細い注射針を使用し、訓練しだいでは患児にほとんど痛みを与えずに済む。そのためのテクニックやノウハウは要望があれば後日、詳細に語りたいが、わたしが特に強調したいのは、小児の口腔内麻酔は効きやすいということ。特に下顎臼歯部に於いての効果は成人のそれと一線を画す。小児の下顎骨表面は成人と異なり多孔性で、乳臼歯根尖へ麻酔薬が浸透しやすい。よって小児の無痛治療が可能でありラポール形成を行いやすくなる。
しかし、麻酔薬へのアレルギー発生は予測が困難である。喘息、アトピー性皮膚炎、食物アレルギーの有無から、ある程度は覚悟できたとしても、それは確率の問題である。したがって、ヤバいかもと思いながら歯科医は粛々と局所麻酔を行わざるを得ない。それが臨床であり開業医の宿命でもある。だが、願わくばアレルギー、アナフィラキシーには遭遇したくない。
テクニック的なものを文章で語るのは文字数を要するので割愛、これも要望があれば後日語りとするが、麻酔薬のうちアミド型のリドカイン、メピバカイン、プロピトカインはアレルギーの発現が稀であるとされている。がしかし、歯科麻酔薬本体へのアレルギーはさらに稀であり、添加物がアレルゲンであることもあるから絶対に安全な薬液は存在しない。特にアナフィラキシーの既往があるならば、高次医療機関での検査、全身麻酔も選択肢となりうる。
それでも低年齢児では既往そのものが存在しないため、問診だけでアナフィラキシーの発生を予測することは不可能に近い。だからこそ、いざという時に備えるべきなのだが、歯科医師会で斡旋された救急キットを活用する自信は私にはない。循環虚脱を起こした小児の腕にラインを確保しデカドロンを静注するなどベテランの小児科医でも至難の業であろう。だが、幼い命をつなぎとめる時間はエピペンを使えば確保可能だ。予告なしに遭遇する麻酔アレルギーへの備えとしては、現実的ではなかろうか。是非とも成人用と小児用を常備していただきたいと思う。
もっと詳細に語りたいが、文字数5000を超えた。これ以上は要望があればということにしたい。
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