女性優位の職場で「お局さま」がのさばるのは管理職がだらしないからだ⑦

従業員問題

 I先生が言い残した「俺を恨むなよ」の謎も解けぬまま、前近代的な診療所に職を得たわたしですが、当面は自由に気ままに診療ができるという思いが先行して、先輩の忠告は頭からすっかりぶっ飛んでおりました。
 前回のお話はこちら。

 スタッフの陣容は常勤と、午後からのパートの歯科助手が二人、前者は40代、後者は30代。I先生から見れば『オバハン』には違いありません。ふたりともに、わたしをにこやかに迎え入れてくれた──かに思えましたが、いきなりパートのオバハンからタメグチでの先制パンチを浴びることになります。
「センセ~、アタシこう見えても主婦なんよ。夕方になったら子供を見てくれる人がいないから、ここの待合室にいさせてもらってもいい? ほら、宿題とかさせなきゃいけないし、ダンナが帰ってくるまでひとりで家においておくのも心配だしぃ……」
 あまりに想定外の申し出に、わたしが答えあぐねていると、
「I先生は許してくれたんだけど」
 と付け加えられては仕方ありません。
「ま、まあ、I先生がそうしてきたんなら……」
 と、着任早々、否応なく濁流に巻き込まれたような気分で頷かざるをえませんでした。
 ところが、この子供というのが大問題。待合室に居るには違いないのですが、まるで自室であるかのように騒ぎまくる。ランドセルから宿題を取り出す気配はまったくなく、大音量でアニメを観る、待合室の椅子を並び替えて秘密基地を作る、時には友達を呼んで走り回る──患者がいようがいまいがお構いなしに。それが日に日にエスカレートしていきます。
 特にまいったのが、母親であるパート助手がまったく咎めないこと。公共の場でたまに見かけるダメ親、馬鹿ガキそのものでした。
 その様子に常勤のオバハン助手が、肥えた腕を組みながら、
「センセからも注意してよ。あたし、これまでに何べんも言ったんよ。でもさ、あの人、はいはいと返事だけはいいんだけど、ちっとも聞き分けなくってさ」
 と鼻息も荒々しく慨嘆します。
 是非もありませんでした。わたしは覚悟を決めると、患者がはけたタイミングを見計らって、
「ここは遊び場じゃないんだ、静かにしなさい!」
 わたしの一喝でフリーズした子供に背を向けると、今度は母親に向き直り、
「遊び盛りですから、じっとしているのは難しいかもしれない。だけど、ほどってものがあるでしょう。他の患者さんに迷惑になりますから、お子さんは金輪際、連れてこないでく……」
 最後まで言えませんでした。
 言葉が終わらぬうちにパート助手の目鼻は、見る間に顔の中央にクシャッと集められていったからです。それが極まった瞬間、ワッとばかりに泣きだされてしまっては、わたしの覇気も萎えるというもの。
 ヒステリックな悪罵の数々を思い出すのも癪なのですが、彼女の叫びを要約しますと、
 センセは独身だからわからないだろうけど、子供を育てるのがどんなに大変か、住宅ローンさえなければ、こんな汚い仕事なんかしたくなかった云々と、がなりたてます。それも延々と。
 子供も母親の陰に隠れて、持参した戦隊もののソフビ人形をわたしに投げつける始末。児童館、ましてや子供食堂のような、親の帰りを待つ施設はない時代。だからと言って、その役割まで背負う筋合いはありませんでした。わたしは二人をにらみ付けながら、胸のうちで繰り返し呟いていました。
──くだらねえ。てめえの事情なんか知るかよ──
 と。
 こんな時に反論しても火に油を注ぐだけです。わたしは親子を無言で見据えてたまま、絶叫の嵐が通りすぎるのを待っていました。やがてパートの助手はエプロンを床に叩きつけると、
「I先生は優しかった。なんでも言うことを聞いてくれた。心の狭いあんたなんかと、一緒に働いてなんかやるもんか!」
 という最後の捨てぜりふを残して踵を返し、壊れんばかりに玄関ドアを閉めました。
 親子の背中と入れ代わるようにして、物憂げなI先生の表情と言葉がよみがえってきます。
──スギウラ、俺を恨むなよ──
 今も昔も歯科の人材不足は深刻、ましてや夕方のパートともなれば、人品骨柄を吟味して採用するわけにもいきません。
 わたしは先輩が残した言葉の意味を、次のように修飾しました。
──スギウラ、スタッフを甘やかしてきた俺を恨むなよ──
 と。

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小学校低学年児が、長時間おとなしく待っているはずはなかった

 お騒がせ母子が去って数分後、薄いドアで隔てられたオーナーの居室で電話が鳴ります。「えーっ!」、「そうなのぉ?」といった驚きの声も漏れ聞こえてきました。助手が告げ口したに違いありません。
 やがて、オーナーが青い顔をしてわたしの元へとやってきます。
 覚悟はしていました。
 またイチからやり直せばいいとも腹をくくっていました。
 なにせ先輩に、なにかあったらさっさと辞めるよう念を押されていたからです。だからオーナーが口を開くより先に、
「すみません、お騒がせして。わたしは、この医院には相応しくないですよね」
 わたしが頭を下げようとするのをオーナーは手振りで制し、
「違うのよ。先生が気にすることはないんです。あの人、ご近所でもわがままで有名な人なの。おとなしい婿養子のダンナさんを尻に敷いてね、やりたい放題、言いたい放題。お母さんも何も言わないから、自分がいつも正しいと思ってるの。だから何処へ行っても勤まらなくて」
 と苦々しい笑みを浮かべます。そして、
「わたしもI先生も本意ではなかったけれど、こんな場所じゃ、ああいう人しか雇えないから……」
 こんな場所──この時は、彼女の言葉の真意がわかりませんでした。
 常勤の助手は、さばさばした口調で、
「センセ、気をつけなよ。この場所は面倒くさい土地柄なんよ。ちょっとしたことで悪い評判が広がってしまうんだわ……。でもさ、あたしもあの人、わがままで嫌いだったから、これで良しとしようよ、ねっ」
 そう笑顔で告げると、さっさと片づけに移ります。

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バブル景気から取り残された一角での出来事です

 次の日のことでした。
 歳の頃は70代くらい、痩せた上体に、白髪頭を大雑把にまとめた女性が窓口にやってきます。患者ではないのは、様子からも明らかでした。
「先生、いるかね」
 突き出た下唇でそう言うと、牛乳ビンの底のような眼鏡レンズの底から眼光鋭くわたしをにらみ付けてきます。
 応対に出ようとしたわたしの袖を、常勤の助手がつかみ、そっと耳打ちしてくれました。昨日、泣いて帰ったパート助手、その母親とのことでした。
「ちょっと、これ見てくれるかね」
 女性が差し出したのは、保険者からの医療費通知でした。
「去年、わたしがこの歯医者で支払った金額と、請求が違っているんだけど、どういうことだね? また水増し請求でしもしとるんと違うのかね?」
 わたしには「また水増し請求」という言葉が、やけに耳にこびりつきました。去年の請求ですから、施術したのはI先生です。前近代的な診療所でしたから、レセプトは手書き。しかも、当時はどこの診療所でも雇っていた、いわゆる“書き屋さん”が請求業務を担当していました。彼女らの給与体系は、固定給の他に、請求可能な項目を増点することでのインセンティブ。現在ではまったく許されていない行為が平然とまかり通っていたのでした。
「これはですね、請求しそこなったぶんを……」
 わたしが紋切り型の説明を始めると、常勤のオバハン助手があわてた様子で割って入ってきました。
「ごねんね~、これさ、わたしが計算間違ったんだわ、たぶん」
 そう言って、算盤を振りかざします。この診療所には、レセコンはおろか、電卓すら存在しないのでした。
 老女は不服げでしたが、それでも、
「もしも次、こんなことがあったらタダじゃ済まんからね」
 と言い置いて背を向けます。
 オバハンは、その老いた後ろ姿を睨みつけながら、
「ひどいね。センセも覚えておいてよ。この場所は難しい土地柄。迂闊なことは言えないんよ」
 と眉をひそめました。
 たしかにここは、高台の高級住宅街と新築マンション群に挟まれた古くからの住宅街。言ってはいけないのでしょうが、有体に表現するならば貧民街とでも言いましょうか。当時はバブル景気の真っ只中でしたから、診療所のある一角だけが再開発や好景気から取り残された感は否めないのでした。
 金持ち喧嘩せず。
 あるいは、
 貧すれば貪する。
 いずれも、経済力と心の余裕の関係を言い表しているわけですが、他者に寛容になれるかは残念ながら、金銭的な豊かさがあってのことなのでしょう。この出来事は、その後の治療に暗い影を落としていきます。
 そしてこの時、わたしはまだ気づいていませんでした。
 ひとり残ったオバハン助手こそが、オーナーさえも手玉にとる性悪お局だということに。
 つづく

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